はじめに
ド派手なスーパーゴールに窮地を救うビッグセーブ。華麗なフェイントに熱くなれる肉弾戦。はたまた緻密に練られた戦術。ボールを死に物狂いで追いかけ、勝利を目指す姿に我々は心を奪われる。だからこそサッカーを観るものに感動と興奮を与える。これがサッカーというスポーツだ。と自分はつい先日まで考えていた。だが機会があり、世界中で愛されるサッカーというスポーツを考え直したところ、技術や戦術を超えたところにサッカーの魅力があるという考えに至った。今回はその『サッカーの魅力』について語らせて頂きたい。
『不自由で自由』というロマン
『不自由で自由』という矛盾こそがサッカーの魅力を一気に引き上げている要因になっている。サッカーは人体で最も器用に扱うことのできる「手」を使うことが許されないスポーツだ。器用に扱うことのできる「手」を使わないことで、行えることへの「規制」がかかり、『不自由』が生まれる。この『不自由』という状態が前提にある。そして『不自由』の中で技術や戦術を使い『自由』を手に入れようとする。この『自由』を追い求める姿にこそロマンがあり、サッカーの魅力が高まっているのではないかという結論に自分はたどり着いた。
『自由』を追い求める理由と方法
この方法が先ほど少し触れた「技術」や「戦術」だ。ではサッカーにおいての『自由』とは一体どのような状態なのか。そして『自由』になることによりどのような事が起こり得るのか。まずサッカーにおける『自由』とは『フリーな状態』を意味する。この状態は時間とスペースがある状態のことを示す。ボールホルダーが『自由=フリー』な状況だと様々な選択肢を持つ事ができ、そこから最善の決断を下す事が簡単になる。そしてフリーな状態で最善の方法を選ぶ事ができれば「ゴール」を奪い、「勝利」を得る事ができる。そのために選手は技術を身につけ、監督は戦術を考え、選手に提示する。これが『自由』を追い求める理由と方法だ。
『サッカーは人生の縮図』という言葉の解釈
オシム監督が残した名言。これほどサッカーの魅力を表現した言葉を自分は知らない。飛躍した話になってしまうが、人生とは『不自由』な中でいかにして『自由』になるのか。そしてその先の『幸せ』を手に入れるのか。これこそが人生と自分は考えている。人生を生きていく中での『不自由』とは社会や学校のルールだったり、親や友人との関係、はたまた自分自身との関係かもしれない。そして人生を歩んでいく中で誰しもが一度はこう思うはずだ。「自由になりたい、自由に生きたい」と。そう、これらの柵こそが『不自由』なのだ。だからこそ『不自由』という中で、知識を身に付け、経験を積み、『自由』を追い求める。この『不自由』の中で『自由』を追い求めることこそがサッカーと似ているのだ。そしてサッカーは『自由』を追い求める手段として技術を身に付け、戦術を学ぶ。そしてその先にある「ゴール」を生み出し、「勝利」を手にする事ができる。こと人生において、『自由』の先にあるものは「幸せ」ではないだろうか。オシム監督の真意はわからないが、自分は『サッカーは人生の縮図』というこの言葉をこのように解釈した。
まとめ
『不自由』の中で『自由』を本気で追い求めることにこそ意味があり、魅力がある。人が本能的に求めているものだからこそ、観る者はその姿に胸を踊らせ、時に感動を届ける。ここにサッカーのロマンがあり、そしてこの『不自由で自由』という矛盾こそが世界中で愛される理由なのではないだろうか。
終わりに
最後までご朗読ありがとうございます。サッカーとはどのようなスポーツなのか、なぜ「手」を使わないのか、なぜ世界で愛されているスポーツなのか、ということを考え始めたらとても飛躍した内容になってしまいました。ですがこの自分なりのサッカーというスポーツの『根本』を見つけることでさらにサッカーへの理解度が深まったと感じています。この機会にみなさんも今一度サッカーというスポーツについて考えてみてはどうでしょうか?そして時間があればぜひご意見をお聞かせ下さい!