スポーツに救われている話

スポーツには何ものにも代え難い瞬間がある

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W杯で日本代表が巻き起こした熱狂の渦からはや3ヶ月。
あの夢のような1ヶ月は忘れることなど到底できない最高のものだった。
白黒の日々を熱狂で彩り、乾いた心を感動で潤し、一挙手一投足から伝わる闘志で燻った情熱に火を灯してくれる。
この『何ものにも変え難い』物語は僕の人生に深く刻まれた。

そして来たる3月22日。再び日本中が熱狂に包まれた。

そう。WBCで日本が世界一になったのだ。
王座奪還が至上命題だった侍ジャパン。その歓喜の瞬間に立ち会うことができたことは僕にとって『何ものにも変え難い瞬間』として再び心に刻まれた。

この『何ものにも変え難い瞬間』こそ、スポーツだけが持つ不思議な力であり、お金では絶対に得ることができない奇跡的な瞬間なのだ。

ああ、なんてスポーツは最高なんだろう。

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前置きが長くなったが、僕はスポーツに日々救われている。特にサッカーには感謝しても感謝し切れないほどに救われている。

繰り返されていく日々。
朝起きて、労働し、擦り減って、寝る。
この日々に嫌気が差すのは僕だけではないはずだ。
死んだように生きている中で、光が差し込む瞬間がある。パアッと視界が広がり、鮮やかな世界が帰ってくる。
それがサッカーを見ているとき。もっというとスタジアムに足を運んだときだ。

僕にとってスタジアムは夢の国。
感情を剥き出しにできて、その感情を多くの人と共有することができる。スタジアムにいる人々は見ず知らずの人だが、スタジアムにいる間は心の奥底で繋がっている。
一緒に全力で応援し、時に喜び、時に悔しがる。1プレー、1プレーに感情を乗せて応援する。共に一喜一憂するのだ。そして選手から伝わってくる闘志や情熱に奮い立ち、生きる力を貰える。

スタジアムには計り知れないほどの熱がある。

こういった瞬間はスポーツ特有のもので、何ものにも変え難い瞬間だ。

なぜ、このようなことを書こうと思ったか。それはWBC決勝戦を観戦している時の出来事。
決勝当日。僕は職場の休憩室で決勝戦を観戦していた。周りには20人ぐらいはいたと思う。
そして迎えた9回表。大谷翔平の登板だ。野球に疎く、にわかな僕だが、それでも大谷翔平の凄さはビシビシと伝わってくる。
僕はその凄みに当てられ自然と拍手をした。
しかし同じ空間の人間はやけに静かだった。
緊張しとるんか?と思ったが構わず僕は応援を続けた。

最後の打者となったトラウトとの勝負。こんな出来すぎたストーリーが他にあるだろうか。
フルカウントで迎えた大谷翔平の最後の投球。えぐい角度でボールは曲がり、トラウトが全力で振ったバットは空を切った。

その瞬間、僕はごく自然に、息をするように自然に叫んだ。世界一だ。喜び、叫んだ。

だがこの空間で僕は一人「浮いて」いたのだ。
同じ空間を共有しているはずの人間は、不気味なほどに静かなのだ。
興奮の最中、『世界一だぞ?興奮せんのんか?嬉しくないんか?』と疑問が忙しく頭を駆け巡る。
居ても立っても居られなくなり、僕は同僚に聞いてみた。

「世界一で?嬉しくないん?興奮せんのん?」

「野球詳しくないし、ましてやスポーツ自体見んけん、感情の表し方が分からん」

僕はハッとした。と同時にスポーツの可能性と自分がいかにスポーツに救われているかを実感した。

スポーツに興味がない人はこの最高の瞬間を知らないらしい…

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考えてみれば確かにそうだ。スポーツに関わっていると自然と感情の表現は豊かになり、その共有が上手になっていく。喜怒哀楽、感動、興奮。全ての感情をスポーツは引っ提げている。
人との繋がりを感じさせてくれるのもスポーツの良さだ。

だから僕はスポーツ観戦を勧めたい。もっと言うならばスタジアムに足を運んで欲しい。そこには相当量の熱量があって、その熱を一度感じると抜け出すことなど不可能に近い。

その熱は伝染し、周りに伝わる。
皆さんも一度は経験したことがあるはずだ。

『なんか楽しそうな人が近くにいると自分も楽しくなる』

そしてスタジアムには純粋で熱く、全力でスポーツを楽しむ人間が多くいる。それはサッカーでも野球でもバスケットでもバレーボールでも、いかなるスポーツでも例外はない。

少なくとも僕はサッカーの熱に日々救われ、何ものにも変え難い瞬間を経験する度に生きる活力と闘志を受け取っている。

スタジアムには感情を揺さぶる膨大なエネルギーがあり、その瞬間は唯一無二だ。

僕のこんな駄文を読み切るあなたなら、スタジアムに足を運べるだろう。
そこへいけば絶対に後悔はない。熱を宿して闘う選手たちからの感情を受け取って欲しい。
そして刺激的で色鮮やかな日々を過ごしてもらいたい。スポーツにはその力があるから。

スポーツは最高だ。
何度でも言おう。スポーツは最高だ。